The Museo del Grande Torino e della Leggenda Granata

トリノの町外れにあるトリノFCの博物館。朝に電話で午後14:20の英語ガイドを予約してバスで向かった。

バス2本乗り継いで1時間近くかけてようやく到着。余裕を見て出たので30分近く前に着いてしまったけど、どうぞどうぞと招き入れられた。

受付に4人もの係の人がいて受付してくれた。なんでこんなに町外れにあるのか聞いてみたら「それを話すと長くなる」と言って大爆笑。英語で案内してくれる人がやってきて説明してくれた。

ここはトリノFCが運営しているものではなく非営利団体がボランティアで運営しているのだそうだ。この建物は1600年代のものでこの団体の一人が使用させてくれてるらしい。

現在のトリノFCの社長Cairoは美術館設立に金を出さならしい。でも3年後を目処にトリノFCと協力してフィラデルフィアに博物館を移設する計画があるんだって。ここの係員みんな実現を信じてない感じだったけど笑

1600年代の建物だそうで中はとても立派です
素晴らしい内装と展示物

1階は重量のある展示物、2階はパネルやユニホームなど軽い展示物になってます。一部屋一部屋じっくり丁寧に説明してくれて滞在時間実に2時間半!その間、他に1組のお客さんが来たのみでほぼ貸切状態です。

トリノFCの歴史だけでなく、イタリアサッカー全般の歴史、イタリアの国としての歴史も知ることができてとても楽しかった。これだけ丁寧に説明されるとますますトロが好きになる。

説明は主に「グランデ・トリノ」「スペルガの悲劇」「フィラデルフィアスタジアム」を軸に展開されます。

自分の備忘も兼ねて聞いたことを写真とともに残します。

まずはトリノFCの歴史。トリノFCは1906年設立。当時トリノにはユベントスとトリネーゼという2チームがあった。トリネーゼのオーナーはハプスブルク家でチームをスイスの実業家に売った。

その際にユベントスと揉めていた選手やスタッフを併合してトリノFCが誕生した。

設立した時はハプスブルク家のカラーである金と黒のユニホームを着たが、チームはもはやハプスブルク家とは関係ないので新たなチームカラーを検討した結果エンジ色(グラナータ)をチームカラーにした。

なぜグラナータか?諸説あるが、一つはスイス人実業家のスイスの地元のチームのカラーがこの色だったというもの。もう一つはサヴォイア家に勝利の知らせを届けた兵団のシャツが血で染まっていてエンジ色だったので、彼らに敬意を表してその色を取ったというもの。できれば後者が良いなあ。

Gigi Meroniの車

上の車はGigi Meroniという60年代の選手が乗っていた車。60年代の車にしては古すぎるのは、彼がかなり変わり者だったということもあるようです。変わり者だっただけでなく、アーティスティックな人でこの車の内装も手がけたり、服のデザインをしたり、絵を描いたりもしたそうです。サッカー選手としても偉大でイタリア代表にも選ばれた。

イタリア代表では背番号15、4つのクラブ(コモの2チーム、ジェノア、トリノ)で7だったので、ナンバーを157777にしたと(上の写真に写ってます)。

周りの人が変人扱いすればするほど奇行が増えていき、犬を散歩させるのではなく鶏に紐をつけて散歩させていたそうな。

そんな個性的な選手でしたが交通事故で24歳の若さで亡くなってしまう。交通事故の現場はCORSO RE UMBERTO 46。今住んでる家の近くです。

フィラデルフィアスタジアムのオリジナルベンチ

上の写真はフィラデルフィアスタジアムにあったオリジナルのベンチ。なんと座らせてもらえます。ずいぶん立派な席だなと思ったらこれはVIP席。一般席はもっと簡素だったようです。

フィラデルフィアスタジアムは当時の会長Conte Enrico Marone Cinzano(お酒のCINZANOのファミリー)が構想からわずか6ヶ月で建設した。使用を開始した初年度にチームは初優勝。その後フィラデルフィアから市民スタジアムに移った年度に初めて2部に降格。再びフィラデルフィアに本拠地を戻すとその年に1部昇格と非常に縁起が良いスタジアムだそうです。

約100年前のスパイクは思ったより軽かった
スペルガの事故現場から見つかったチームドクターの救急ボックス
リバープレートが事故後のチームに手を差し伸べてくれた

スペルガの悲劇。ここは正しく聞き取れなかった部分もあったかもしれないです。
まずスペルガの悲劇とは、1949年5月4日、ベンフィカとの親善試合のために訪れたリスボンからの帰りにチームを乗せた飛行機がスペルガに墜落してしまい全員亡くなった事故のこと。

この親善試合は貧しかったベンフィカの選手のサポートのために行われたチャリティマッチだったようです。選手間で合意してトリノの社長に掛け合ったところ、その直前に行われるインテルミラノ戦に負けなければ行っても良いとの許可が出た。

結果トロはインテル戦に引き分けてリスボンへ向かうことに。このリスボンに本来は行くはずだったけど行かなかった人、行かないはずだったのに行った人がいて運命が大きく分かれる。

行く予定だったのに行かなかったのは当時のラジオ実況で有名だったNicolò Carosio。子供のイベント(洗礼のような宗教的なもののようだけどよく分からなかった)があるので奥さんが行かないでと懇願したらしい。

もう一人は怪我で遠征から外れたSauro Tomà。彼は晩年まで自分が生き残ったことを心苦しく思い、みんなと一緒に死にたかったと語っていたらしい。悲しすぎる。

逆に本来であれば遠征に加わることがなかったのは第3GKだったDino Ballarin。彼の兄のAldo Ballarinもトロの選手で、いつも試合に出られないことを不憫に思ったAldoがDinoも遠征に連れて行って欲しいと願い出てそれが認められた。その結果兄弟二人ともスペルガの犠牲者となってしまった。

リスボンからバルセロナに給油で立ち寄り、そこで本来の目的地のリナーテ空港からトリノの空港に行き先を変更したらしい。おそらく飛行機の高度計が壊れていてパイロットの想定よりも低い高度で飛んでしまった飛行機がスペルガ聖堂に突っ込んでしまった。

この悲劇に手を差し伸べたチームの一つがアルゼンチンのリバープレート。残された選手の妻、子供の経済的な支援のためにチャリティマッチを開催する。シーズンによってトロのセカンドジャージのデザインがたすきがけになっているのはリバープレートのジャージのデザインから取っているんだそうな。

リバープレートに敬意を表したセカンドジャージ
スペルガの直前のイタリアでの試合相手、スペルガ直前の試合相手、スペルガ直後の試合相手のユニホーム

スペルガの悲劇の後、トリノの街をあげての葬儀が行われた。当時のトリノの人口20万人に対して葬儀参列者はなんと60万人!いかに当時のトロがイタリアで重要だったかが伺える。

サンカルロ広場に多くの人が集まる

なお、グランデ・トリノはスペルガの悲劇で失われてしまったトリノFC史上最強のチーム。当時のイタリア代表は先発10人がトリノFCの選手だったこともあったそうです。
試合は相手を圧倒して相手コートで展開されるのでGKは暇で試合中にゴール裏のファンと話をしていたとか笑

Bruno Neriのイタリア代表ユニホーム

グランデ・トリノの時期の前の、第二次大戦時のイタリアはファシズムだった。FCトリノというチーム名のFCは英語のFOOTBALL CLUBであるため使用が禁じられ、イタリア語であるAssociazione Calcioを使ってAC TORINOとなった。

当時のイタリア代表もチームカラーこそアッズーリだが、そのロゴにはファシズムのシンボルであるFascio littorio(斧を木の束で縛ったもの)が刺繍されています。

トロの選手でイタリア代表だったBruno Neriは試合前のファシズム式敬礼を拒否し手を下げていたそうです。やがてサッカーを離れパルチザン・レジスタンスとなりナチスとの戦いによって亡くなってしまったそうです。

スペルガの悲劇でグランデ・トリノが失われてからはトリノFCは再び強くなることは無く1部と2部を行ったり来たりなのかと思っていたらなんと76年にはスクデットを取っていました。

スクデットを取った翌シーズンは当然胸に3色旗をつける。

スクデット翌年のユニホーム

ところがこのユニホームに選手が違和感を唱えた。トロの紋章がハート(胸)にあるべきだと。そこでサッカー協会はスペルガの悲劇にも敬意を表し特例として三色旗の上にトロ(牛)のロゴを入れることを認めた。

かっこいい・・・。このユニホームの復刻があったら即買いたい。

1976-77シーズンの特例ユニホーム

また1967-68と1970-71のコッパイタリアも制している。67-68のコッパイタリア優勝については面白い逸話があって、当時の会長Orfeo Pianelliはとても縁起を担ぐ人だった。

例えばビジネスで行ったロシアから帰った足で試合観戦しその試合に勝ったのだけど、その時来ていたのは極寒地向けの厚い生地のスーツ。このスーツを縁起が良いとして、そこから観戦した試合で負けるまでずっと着ると宣言したところ、チームは勝ち続け(多分優勝した年)厚い5月までこの極寒地仕様のスーツを着ていたとか笑

他にはある試合でチームがバスでスタジアムに向かう際の途中の道でマンションのベランダから女性が手を振った。その試合は勝利。次の試合でも女性が手を振って勝利。ところがある日の試合ではその女性が姿を見せなかった。するとPianelli会長はバスを止めてクラクションを鳴らしその女性が出てくるのを待ったそうな。

そんな会長が就任している時期の1967-68シーズンのコッパイタリアでチームは決勝に進んだ1942-43シーズン以来の優勝のチャンス。当然Pianelli会長は験を担ぎに行く。

1943年の優勝カップを試合会場に持ち込んだのです。その結果チームはめでたく優勝。25年ぶりの優勝にチームはどんちゃん騒ぎ。そのどんちゃん騒ぎの最中なんと1943年の優勝カップを紛失してしまったのです。なんともイタリア人らしいというか。

そしてなんとこのカップが数十年の月日を経てロンドンのオークションに出されたそうです。当時のトロの会長がこれを落札(落札額250kユーロくらいと言ってたけど、ググると違う情報もでるので不明)。その後この博物館に無償貸与されているそうです。

いやー、これ明らかに盗品なのにオークションに出しちゃう団体もどうかと思いますけどね笑。出品者の身元は隠されて出品されたそうです。そりゃそうか。

トリノに帰ってきた1943のコッパイタリア

その後も強い時期はあったようで1992年にはUEFAカップ準決勝であのレアル・マドリードを破り決勝に進んでいます。結果はホームで2-2、アウェイで0-0だったためアウェイゴール差によって優勝を逃しています。

輝かしいUEFAカップの記録

下の写真は世界初(イタリア初だったかな?)のサッカーファンクラブを作った人のチケットコレクション。シーズンチケットは毎節ごとに切符のように節の数字に穴を開けていくシステム。

デザインも素敵だし昔のチケットの方が味はあるなあ。今のチケットは電子で便利だけど残すには味気ない。

素敵なデザインのチケット

下の写真は別に修道士がトロティフォージだったわけでは無く、トロティフォージが試合前日にカプチーニの丘の教会の前で酔っ払って寝ていたら修道士が服をかけてくれたそうでそれを着てそのまま試合に行ったそうな。その試合に勝ったかどうか知らないけどその青年はその後も試合にはこの服を着て行ったんだって。

愉快だなー。

幸運の修道士服?

あとは最後の部屋にあったユニホームコレクションが楽しかった。今はもう倒産していると思われるスポーツメーカーもあった。

スポンサーにREALE MUTUA(トリノを本拠地とする巨大な保険会社)があったけど、これ良いな。トリノの巨大企業にスポンサーになって欲しい。まあ日本企業のスズキももちろん良いのだけど。

歴代ユニホーム
LOTTOもいいな

真ん中のグレーのキーパーユニホームはイタリアのリーグで初めてマラドーナのPKを止めたキーパーのものだそうです。

マラドーナを止めたユニホーム
このカクカクした牛のロゴって昔からあるんだな
右上はハプスブルグ家の金黒カラーをとったもの

ということでとても充実した2時間半だった。おもわず20ユーロの博物館のガイドブックを買ってしまった。ちなみにここの入場料もアボナメントカード(博物館の年間パスポート)で無料でした。

3年後にチームの公式博物館ができてここと統合したとしたら、今日みたいなボランティアの人につきっきりでじっくり説明してもらえるなんていう贅沢なシステムにはならないでしょう。

郊外で観光客には行きにくい場所だけどトリノFCが好きなら訪問することを強くお勧めします!

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